サカモトハルキの哲学

経営者。投資家。不動産投資と株式投資やってます。5棟74室+月極P24台(2010年12月より法人化)。配当狙いの個別株投資。

マイナスなことにもメリットがたくさんあるという話

あなたは精神科とか神経内科というところへ足を踏み入れたことはありますか? 

そこは心や精神なんらかの問題を抱えた人が訪れる場所です。

僕はかつて『自律神経失調症』と診断されたことがあります。

そのときは、まともに立っていられないほどの激しいめまいに襲われ、日常生活に支障をきたすまでになりました。

だから病院に駆け込んだのです。

その後、自律神経失調症の症状は改善されたのですが、数年後、今度はうつ的症状に苛まれるようになりました。

そのときは、精神科にも、神経内科にも行きませんでした。

行ったところで、「うつ病です」と言われるのが目に見えていましたから…

明らかにあの頃の僕はうつでした。

それは誰の目にも明らかでした。

なんといっても自分自身がそのことを自覚していました。

僕のうつがどれほど深刻なものであったのか今となってはもうわかりません。

もしかしたら相当、重度のものだったのかもしれませんし、それほど大したことのないものだったのかもしれません。

うつを克服した今となってはそんなことはどうでもいいことになってしまいました。

 

もう一度、あれを経験したいかと誰かに問われたら、もちろん「いいえ、結構です!」ときっぱり答えるでしょう。

自律神経失調症にしてもうつにしても誰だってそんなものになりたくありません。

 

これは身体の病気や症状にしたってそうでしょう。

誰だって心も身体も健康でいたいと考えるはずです。

だけど人間はときには病を患ってしまうことがあります。

それが肉体的なものであれ、精神的なものであれ…。

でも僕は最近こんなふうに考えるようになりました。

 

一生のうち、一回でいいから、そういう世界を垣間見ることは良いことなんではないか?

 

と。

もちろんそれには危険も伴います。その迷宮に迷い込んでしまって、一生そこから抜け出せなくなってしまう人もいます。でも、一度でもいいから、そういう世界を垣間見て、そのことについて考えたりすることって、実はとても大切なことなんじゃないかと僕は思います。

人はよく、『まとも』という言葉を口にしますよね? でも、いったい何をもって、まともということになるのでしょうか? 逆に言えば、「まともじゃない」って、どういう状態のことをいうのでしょうか? その判断はいったい誰がどのようにおこなうものなのでしょうか? その境界線は、いったいどのようなものなのでしょうか? そして、その境界線は、果たして本当に正しいものなのでしょうか? 

ときどき、心の病で苦しんでいる人のことを、バカにしたり、差別したり、攻撃したりする人たちを見かけます。その言葉は、ものすごい暴力性を帯びています。目を覆いたくなるような、憎悪と偏見、差別に満ちた言葉たち…。

自分たちは、まともであるという確信…。そして、自分たちはきわめてまともなところに、まともな場所からものを喋っているのだという身勝手な解釈…。その一方的な思い込みは、ときに狂気の領域にまで達することがあります。

僕はそういう人たちを見るたびに、いったいどっちがまともなんだろうと思ってしまいます。僕の目には、そういう人の方が、精神科や神経内科に通う人たちよりも、はるかに「まとも」じゃないように見えるのですが…。

目次

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最近、流行りの『自己肯定感』に感じる違和感

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こころの病を経験すると、「もう以前の状態には戻れない…。」という感覚になります。ある一線を超えてしまったような感覚。違う世界に来てしまったような感覚。

何かそれまでの自分とはまったく違う人間になってしまったような気分。そして、「もう後には戻れないんだ…」という想い。でも、それは果たして、ネガティブなことなのでしょうか? 僕はそうではないのではないかと思っています。

少なくとも、心の病になって「それまでとは違う世界に来てしまった…。」という感覚を味わえたことは、僕にとって非常にプラスになりました。僕はそのことを通じて実にいろんなことを学ぶことができました。

自分は欠陥のある人間なんだ。…ということを腹の底から認識することは、決して悪いことではありません。自分は完璧じゃないということをきちんと知っておくことによって、僕たちは自分自身を見失わずに済むことができるのです。

最近、『自己肯定感』という言葉をいたるところで見かけます。確かに、自分を肯定することは、とても大切なことです。自己嫌悪するよりは、はるかにマシでしょう。でも、行き過ぎた自己肯定は、過剰な自己愛となり、『慢心』を誘発します。僕は世の中でいちばん恐ろしいのは、この『慢心』だと思っています。

人は慢心を抱くと、それこそ『おかしく』なってしまう生きものです。オレは正しいんだ。わたしは間違っていない…という考えは、一歩間違えれば『オレは(わたしは)何をやってもいいんだ!』という誇大妄想に変換されてしまいます。これは自己肯定感とはまったく違うものです。

過剰なまでの自己愛は、過剰なまでの自己嫌悪よりもタチが悪いものです。コンプレックスを克服するのは比較的ラクなのですが、慢心を克服するのは、なかなか厄介なことなのです。

慢心が原因となり、さまざまな悲劇がくり返されています。僕たちはそれを過去の歴史から学ぶことができます。だから僕は最近、流行りのインスタントな「そのままの自分を愛してあげましょう」的な風潮に疑問を感じているのです。

でも、一度でも心の病になると、その過剰なまでの自己愛ってやつを抱くことがなくなります。そのことによって、非常にバランスのとれた人間になることができます。自分も欠陥のある人間である。…という感覚をしっかり持つことによって、僕たちは慢心におちいることなく普段着のままで生活してゆくことができるのです。

考えてみたら、僕たち人間は一人ひとりとても弱い生きものなのです。弱い生きものだからこそ、みんな力を合わせなきゃいけないのです。僕たちは平等です。誰が「上」で、誰が「下」ということはありません。なぜなら、僕たちはとっても弱い生きものだからです。

自分を特別視する思想は、ヘタをしたら行き着くところまで行ってしまう危険性をはらんでいるのです。ヒトラーの場合、それはユダヤ人の大虐殺という悲劇にまで発展していきました。僕がいちばん恐ろしく思うのは、ヒトラーやナチスの幹部たちだけがその極端な思想に染まっていったのではなく、当時の普通のドイツ国民までもがその思想に染まっていったことです。

昨日まで、ほのぼのとパンをこねていたような一般市民が、ユダヤ人迫害に力を貸したという事実。僕たちはこのことをどう解釈すればいいのでしょうか? 僕たちはここに人間のもう一つの側面(つまり邪悪性)を垣間見ることができるのです。そして、その邪悪性(あるいは暴力性)は、あの当時のドイツ国民だけに宿っていたものではありません。それは、確実に現在の我々一人ひとりの心のなかにも潜んでいるものです。 

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負けることによってはじめて、負ける人の気持ちが理解できるようになる

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こころの病を患ったことにより、僕のなかでは「人をあわれむ気持ち」のようなものが芽生えるようになりました。以前の僕は、苦しんでる人を見ても、何とも思っていませんでした。そういう人を見ても、どこか他人事でした。「自分とは関係ない人だから」と…。

この変化は自分でもいちばんの驚きでした。それと同時に今までの自分がいかに自分のことしか考えていなかったかということを痛感しました。僕には他の人のことを考える余裕なんてまるでありませんでした。とにかく自分の人生を良くすること。成功すること。幸せになること。…そのことしか頭にありませんでした。

でも、そういうことばかり考えていると、どんどんどんどん利己的な人間になっていきます。自分さえよければいいんだ。…と考えるようになります。そういう風にして生きる生き方は、とても疲れる生き方です。恐らく、僕がこころの病になったのも、そういう疲労が積み重なったせいもあるのでしょう。

ところが、こころの病になったことにより、不思議な逆転現象が起こりました。あんなに自分のことしか考えてなかった僕が、はじめて他人のことを考えるようになったのです!

とくに自分と同じように苦しでる人のことを、心の底から哀れむようになったのです。これは僕があまりにも利己的になり過ぎていたことの反動なのかもしれません。あるいは反省なのかもしれません。『慈悲の心』と言えば大げさかもしれませんが、とにかくそういうものが急に僕のなかに芽生えてきたのです。

勝つことばかりを考えてる人は、負ける人の気持ちがなかなか理解できないものです。でも、自分が負けることによってはじめて、負ける人の気持ちが理解できるようになるのです。

以前の僕は完全に『ネオ・リベ』的な人間でした。負ける人は、負ける人が悪い。弱肉強食。ウィナー・テイクス・オール。勝てば官軍、負ければ官軍、etc…。

そんなふうに考えるタイプの人間でした。だけど、人間というのは、そんなに強い生きものではないのです。そして、僕自身もそんなに強くありません。こころの病を患ったことにより、そのことを痛感するようになりました。自分の弱さ、自分の脆さ、自分の情けなさを痛感することになりました。

それはとてもツライ経験でしたが、でも、そのおかげで僕は『自己チュー』から抜けだすことができました。それは僕にとって非常にいいことでした。それをきっかけに僕の人生はだんだん良くなっていきました。精神的にも落ち着きを取り戻し、以前のようにガツガツ生きることもなくなりました。

僕は相当、肩に力が入った生き方をしていたのでしょう。そして、そのせいで空回りばかりしていたのです。

 

 

シェイクスピアはこんな言葉を残しています。

 
 

悪口を言われて我が身を正すことの出来る人間は幸せと言うべきだ

 

 

 

マクベス(新潮文庫)

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