サカモトハルキの哲学

北海道で5棟74室+月極P24台の大家やってます。2010年12月より法人化(10期目に突入!)。奥さんと中2小5男子と猫と自由にのんびり暮らしてま〜す!

あいちトリエンナーレにおける『表現の不自由展・その後』をめぐる騒動で浮き彫りになった日本の闇について

 

 

aichitriennale.jp

 

www.chunichi.co.jp

 

今回のあいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」の件は僕たちにいろんなことを考えさせるきっかけになったと僕は思っています。

 

まず忘れてはいけないことはトリエンナーレは被害者の側だということ。

 

「表現の不自由展・その後」は『あいちトリエンナーレ』の中の一部の催しに過ぎず、表現の不自由展の方は420万円が、あいちトリエンナーレの方は7,820万円がそれぞれ補助金が交付されることになっていたのです。

それが今回の騒動で突然、補助金が打ち切られました。

どっちが加害者で、どっちが被害者なのでしょうか。

 

さらに、こともあろうに河村たかし名古屋市長自ら乗り込んでいって大騒ぎをするという前代未聞の事態。

一人で乗り込んで抗議するのならまだしも、まるでチンピラのような右翼連中といっしょに乗り込んでいった。

 

それは「威圧」以外のなにものでもないでしょう。

もっと言えば、それは「嫌がらせ」です。

 

しかもその抗議の時間がたったの7分間だったというオチもついています。

僕はてっきり何日も座り込みをするのかと思っていました。

それがたったの7分!

しかも、チンピラ風な右翼連中を引き連れて・・・

 

これは妨害以外のなにものでもないのではないでしょうか。

もっと簡単な言葉で言えば、「脅し」です。

 

相手に「怖い…」という感情を植えつけるためのパフォーマンス。

やってることはN国といっしょです。

7分間は座り込みとはいえないのでは?

僕の目にはそれはパフォーマンスにか見えませんでした。

 

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あいちトリエンナーレは「ガソリンをばらまく」と脅され、いったんは中止に追い込まれました。

その後、再開が発表されましたが、今度は文化庁から補助金7,820万円全額を打ち切られる結果になりました。

まさに踏んだり蹴ったりです。

 

文化庁は「手続き上のミスによる補助金を不交付とする」という苦しい弁明をしましたが、そんなのは詭弁であることぐらい誰でもわかるでしょう。

しかも、問題になっているのは「表現の不自由展・その後」のみ。

あいちトリエンナーレは別に表現の不自由展だけをやってるわけではないのです。

 

ところが国は「あいちトリエンナーレ」そのものを否定するような態度を表明したのです。

これは誰がどう考えてもおかしい・・・

 

結局のところ、『国家権力に逆らう者は徹底的につぶす』ということなんだと思います。

それを示したいんだと思います。

示したいし、実際にそういう国になりたいんだと思います。

 

この件以外のここ数年の一連の動きを見ていると、そのことはよくわかります。

政府の方針に従え。

それに歯向かう者は検閲する。

戦前の日本やナチス・ドイツと同じようなことをやろうとしているわけです。

 

これは絶対にあってはならないことです。

なぜなら、憲法では『表現の自由』というのがきちんと定められているからです。

 

一つ一つの表現に対して意見を述べるのはいい。

「俺は気に入らない」とか「私は嫌いだ」という意見を持つのは全然構いません。

でも、そのことと表現そのものを規制することとは別問題です。

 

これは民主主義の根幹に関わる問題なのです。

 

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補助金を出す・出さないをこれから吟味するという段階ならまだわかりますが、すでに交付することが決まっている補助金を引っ込めるというのは前代未聞の話。

加えてその態度はこういった内容のものを忌み嫌う一定の勢力に武器を与えることになるという意味で二重の意味で罪深いことです。

 

「そうか。こうやって騒げば取りやめてくれるんだな」という前例をつくる結果になったわけですから・・・

それでは『表現の自由』というのは守られない。

間違いなく表現の現場に混乱をもたらし、萎縮させたと思います。

 

政府は「検閲ではない。手続き上の問題だ」と言っていますが、これは検閲以外の何ものでもありません。

だいたいにおいてテロ行為をほのめかし、「危害を加えるぞ」という加害者側の意向に政府が従うということ自体が異常なのではないでしょうか。

 

本来であるならばそういった加害者側(あるいは加害を加えるぞと脅してる側)と真っ向から対立する立場を取らなきゃいけないはず。

そして、被害者側(今回の件でいえば、あいちトリエンナーレ側)を徹底して守る立場を取らなきゃいけないはず。

それがまったく逆になっているんですね。

それが今回の件の異常性を物語っています。

 

引いた目で見れば、文化庁は今回の件で脅した側の考え方に『賛同した』という見方もできます。

これほど恐ろしいことはありません。

本来であるならば、表現の自由を守るべき立場であるはずの政府が表現の自由を脅かそうという勢力の側についたのです。

 

どっちが悪で、どっちが善なのでしょうか

どっちが正しいくて、どっちが間違っているのでしょうか

 

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参議院選挙の街頭演説のとき。

ちょっと「安倍やめろ!」と叫んだだけで警察にしょっぴかれた事件がありました。

僕は今回のあいちトリエンナーレの件とその件はつながっているように思えてならないのです。

 

要するに、この国では『言論・表現の自由』がどんどん狭められつつあるということです。

そして、むしろ何かを言ったり、何かを表現したりすること自体が「けしからん!」とする空気をつくり出そうとしているように感じるのです。

 

非常に危険な流れだと思います。

この国はいったいどこへ行こうとしているのでしょうか。

 

おそらく東京オリンピックで同じようなことが起こったら、政府は徹底的に排除に乗り出すことでしょう。

絶対に脅迫者の側に立つなんてことはしないでしょう。

オリンピックを中止したり、補助金を不交付にしたりなんかしないはずです。

 

今回の件があいちトリエンナーレだったから、そのなかでも「表現の不自由展・その後」だったからこのような結果になったのだと思います。

そこに安倍政権の『意志(あるいは考え方)』みたいなものが存在し、すべてのことがそれに基づいて動いているとしか考えられません。

 

要するに、「表現の不自由展・その後」で展示されている『平和の少女像』などが気に入らなかったのでしょう。

あそこにピカソやゴーギャンの絵が展示されていたら、こんなことにはならなかった。

 

もちろん、そういった展示物に対していろんな意見があってもいい。

あれを「不快だ」「嫌いだ」と思う人がいてもいいのです。

すべての作品がすべての人に受け入れられるなんてことは絶対にありません。

 

だけど、あれを不快だとも、嫌いだとも思わない人もいるわけです。

それどころか、あの作品に感動したりする人もいる。

 

そういう人がいるという事実が今回の件ではすっぽり抜け落ちている・・・

そして、大きな声をあげる反対者の意見だけが採用されてしまっている。

 

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さらに政府もその大きな声をあげる反対者の意見の側につく態度を示してしまっている。

芸術とは本来、自由なもののはず。

いろんな見方があってもいい。

 

その代わり、自由であるということ。

だからこそ芸術は素晴らしいのではないでしょうか。

 

あの作品は「あなた」のものでもあるし、「わたし」のものでもある。

「みんな」のものです。

Aさんが思ったことと、Bさんが思ったことは全然違うかもしれない。

それでいい。

 

だけど、国家権力が一方の見方だけにお墨付きを与えるようなことはしてはいけない。

だから『表現の自由』というものが憲法でうたわれているんです。

 

 

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ja.wikipedia.org

 

 

 

 

 

 

 

落語家の志らくさんはしつこいくらいに「やっていいことと悪いことがある」とくりかえし述べています。

この言葉、とても便利な言葉です。

相手を黙らせるとても便利な言葉です。

 

これを言われた人は何も言えなくなってしまいます。

 

でもよく考えたら、それは志らくさんの考え方であり、ものの見方ですよね。

「僕はこう思ったんだ」ということです。

 

志らくさんは別に神様でもないし、憲法でもありません。

志らくさんがそういう考え方をしていてもいいんです。

そういうふうに今回の件も見ていてもちっとも構わない。

 

でも、そのこととあいちトリエンナーレを中止に追い込んだり、表現それ自体を引っ込めさせようとすることとはまったく別の問題です!

 

『時計じかけのオレンジ』という映画を不快に思う人がいてもいいんです。

『イージー・ライダー』や『タクシー・ドライバー』という映画に腹を立てる人がいてもいい。

ビートルズやローリング・ストーンズに対して、「不道徳だ」「青少年に悪影響だ」と思う人がいてもいい。

 

そういった作品の内容について、「やっていいことと悪いことがある」と言って、イチャモンをつけて怒ってるおじさんの姿を想像してみてください。

 

そういうおじさんがいてもいいけど、そのこととその作品の展示・発表自体をやめさせること(しかも、それを暴力という手段をつかって…)とはまったく別問題です。

 

志らくさんは自分の中の道徳観や正義を述べているだけに過ぎないのです。

それは尊重します。

誰がどんなことを思おうが勝手だし、どんな道徳観を持っていても構わない。

だけど、そのことと表現自体をやめさせることは分けて考えなくてはいけない。

 

「僕はこう思った」という感情論と、『表現の自由』という憲法で保障されてることがごちゃ混ぜになってしまっている。

 

本来であるならば、国家権力が中立の立場を取り、「いろんな意見があっても構わないけど、そのことと表現の自由の侵害とは別ものです」と述べなくてはならなかった。

ところが、現政権および現政府はそういう立場を取っていない。

 

それが今回の件のいちばん恐ろしい点なのです。

 

 知事という立場でありながら、こんなことを言い出す人も出てくるし…

 

 

 

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