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シンプルに。自由に。

北海道でアパートの大家業をしてます。4人家族。映画が好き。猫が好き。北の国でなまらのんびり生きてます。“every cloud has a silver lining.” したっけ!

幸せであらねばならない!という強迫観念の危険性について


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幸せとはいったい何でしょうか? どういう状態になれば、人は「ああ、オレは(わたしは)幸せだなぁ…」と思うのでしょうか? それは人によって違うものだと思います。

預金通帳に1億の現金があっても幸せを感じられないという人もいます。Facebookの友だちの数が1,000人を超えても、まだ幸せじゃないという人もいます。幸せとは、非常に個別的なものなのです。だから、これこれ、こういう状態が幸せな状態である…というふうに、なかなか定義できないものなのです。

それにも関わらず、僕たちはそれを必死に明示化しようとします。数字で置き換えられるものでないのに、必死になって、数字に置き換えようとします。年収とか、最終学歴とか、就職した会社のランクとか、etc…。

みんなそういうことに一喜一憂しています。多くの人の頭のなかには、『幸せ』と書かれた一本の線があります。そして、その一本の線を境にして、勝手に「こっち先は幸せ」「こっちから先は幸せじゃない」という具合に、線引きをしてしまっているのです。

それが不幸のはじまりでもあるのですが…。

目次

「幸せであらねばならない」と考えることの危険性

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人生にはいいときもあれば、悪いときもあります。「いつもいつもハッピー!」というわけにはいきません。

どんなに愛し合って結婚した夫婦だって、離婚してしまう人もいます。どんなに熱い友情で結ばれた友人関係も、学校を卒業してしまえば、だんだん疎遠になってゆくものです。

仏教でも言っているとおり、すべては移ろい、すべては変化してゆくのです。人生には、幸せな状態の時期というのもあれば、不幸せな状態の時期というものもあるのです。今が幸せな状態だからといって、安心してばかりはいられません。今が不幸せな状態だからといって、絶望ばかりしてはいけません。

にもかかわらず、今の世の中には「いつもいつも幸せでなきゃいけない」という風潮が漂っています。本当に四六時中、幸せでなきゃいけないのでしょうか? 四六時中、幸せであることが本当に幸せなことなのでしょうか? もしも四六時中、幸せであることが最大の価値だというのなら、そこからちょっとでも外れてしまった瞬間、それは『幸せではない』ということになってしまいます。それで本当にいいのでしょうか? 

たとえば、「年収が600万円あれば幸せだ」という価値基準を持っていたとします。ところが、勤めている会社が業績不振になり、ボーナスがカットされてしまったとします。それで、年収が500万円になってしまいました。これはよく聞く話ですよね。

さて、この年収500万円になってしまったサラリーマンは、不幸な人でしょうか? 本人からしてみたら、「600万円から、外れてしまった…!」ということで、相当ショックを受けることでしょう。

なんせ、「600万円」が幸せのボーダーラインなわけですから。でも、年収300万円の人からしたら、年収が600万円になろうが、500万円になろうが、一緒です。どちらも、「うらやましい!」という話になります。

線引きをしてしまった瞬間、そこには基準なり、水準といったようなものが設けられてしまいます。そして、いったんその基準なり、水準なりが設けられてしまうと、そこを「クリアしている人」と、「クリアしていない人」が誕生してしまいます。その基準なり、水準なりをクリアしている人はいいでしょう。でも、そうじゃない人は、どうすればいいのでしょうか…?

残念、負け組、あなたが悪い、etc…。ということで、一生、敗北感を味わっていかなければいけないのでしょうか? 

今、多くの人が苦しんでいる根っこには、僕はコレがあるのではないかと思っています。みんな、ある一定の基準なり、水準なりといったものを勝手に設けて、「そこに到達できてない自分」に劣等感を抱いている。そして、「そこに達してない自分は今、不幸な状態にある」と、勝手に妄想し、落ち込み、そして、イライラを貯め込んでしまっている。

それはあまりにも単純すぎる図式です。あまりにも無知です。

ブッダの言う『生きることは、苦しいこと』というのは本当か?

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仏教には「一切皆苦」という言葉があります。ブッダは「生きることは、苦しいことだ」と言っています。確かに、自分の人生をふり返ってみても、苦しいことの連続だったような気がします。

「自分はなんて不幸なんだろう」「人生はなぜこんなにツライことの連続なんだろう」「幸せを手に入れるのなんて、絶対に不可能だ」…若い頃の僕は、毎日、そんなことばかり考えていました。

今にして思えば、ちょっと信じられないことです。今の僕はあまりそのようなことは考えません。そのような状態から脱することができたからです。

今がどんなに不幸せな状態にあったとしても、これから先もずっとその状態が続くわけではありません。同じことは幸せな状態にあるときにも言えます。今がどんなに幸せな状態にあったとしても、これから先もずっとその状態が続くわけではありません。

だから僕たちは慢心を抱いてはいけないのです。今の状態にあぐらをかき、安心しきっていてはいけないのです。注意を怠らず、きちんと考えて行動しなければいけないのです。

なかには、『インスタントな幸福感』を体験させることで信者を集めようとしている宗教団体もあったりなんかします。気をつけなければいけません! 幸せはそんなに簡単に手に入れられるものではありません。

僕は宗教にハマる人のことを悪く言うつもりはありません。信仰の自由は、何よりも尊重すべきことだと思っています。でも、どんなに宗教にのめり込んで、たとえ悟りを開いたとしても、『現実社会と折り合いをつけていかなければならない』ということを忘れてはいけません。僕たちが生きる場所は、この社会以外にないのです

そして、この社会のなかで生きていれば、いろいろと嫌なことというのは起こるものです。そういったものを完全にシャット・アウトすることはできないのです。そういった意味でいえば、ブッダの言う「一切皆苦」という言葉は一理あるのかもしれません。

そう。生きることとは、苦しいことなのです。そして、その苦しみから僕たちは完全に抜け出すことなんかできないのです。でも、その苦しいことだらけの人生の中にも、時には「幸せだな!」とか「嬉しいな!」とか「サイコー!」と思える瞬間というものがあるはずです。

僕たちは『その瞬間』を求めて、毎日を生きているのではないでしょうか? そして、『その瞬間』があるからこそ、僕たちはどーにかこーにか生きてゆけているのではないでしょうか?

にせヒッピーだった両親からの影響

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僕は両親の影響から、ヒッピー・カルチャーやカウンター・カルチャーといったものに影響を受けて育ちました。小さい頃からボブ・ディランやビートルズを聴かされ、『イージー・ライダー』や『カッコーの巣の上で』といったアメリカン・ニュー・シネマを観て育ちました。

カッコーの巣の上で (字幕版)

カッコーの巣の上で (字幕版)

 

 しだいに禅にも興味を持つようになり、ニュー・エイジ的なものにも興味を持ちました。さすがにベジタリアンにまでなりませんでしたが…。


僕の理想主義的な側面は、間違いなく僕の両親から受け継いだものです。僕が夢見がちなのは、おそらくそのせいだと思います(人のせいにするわけではありませんが…)。

しかし、その理想主義的な側面や、夢見がちな側面といったようなものが、僕の人生を人とはほんの少しだけ違ったものにしてくれました。僕は人と違う生き方をすることに何の迷いもありませんでした。それは、子どもの頃からたっぷりとそういった自由な空気に触れていたおかげだと思っています。

だから僕は今、こんなふうに自由と幸せを謳歌する毎日をおくることができているのだと思います。そういった意味では、僕は僕の両親に感謝しなくてはならないかもしれません。彼らが僕にヒッピー・カルチャーやカウンター・カルチャーといったものを教えてくれなかったら、今ごろ僕はどうなっていたでしょうか? 

きっと、暗い顔をして、ため息をつきながら、嫌々ながら仕事をしていたことでしょう。彼らが僕にボブ・ディランやビートルズを教えてくれたおかげで、僕は『日本的サラリーマン・システム』から抜け出すことができたのです!

それは心の底から感謝しています。でも、僕の中にあったのは、決して夢や理想だけではありませんでした。僕の中にはもう一つの側面がありました。それは非常に冷酷で、冷淡な現実主義者としての側面でした。

僕には非常にリアリスティックな側面もある

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僕は確かに夢見がちで、理想主義的なところがあります。それは認めます。しかし、それと同時に僕のなかには非常に現実主義なところがあります。このふたつが僕のなかに同居しているのです。

それらは言うまでもないことですが、矛盾したものです。たとえば、「お金」。ヒッピー的思想を持つ僕の両親は、「お金」というものをあまり快く思っていませんでした。二人とも高給取りであったのにもかかわらず、彼らの発言の節々に「お金持ちはブルジョワだ」という思想が散りばめれていました。

それに対して僕の方は、最初から「お金」というものにそれほど抵抗感を持っていませんでした。彼らほど「お金」というものを毛嫌いしていませんでした。それは彼らと大きく違うところです。

僕は自分でもフワフワしたところがある人間だと思っています。でも、『自由を獲得するためには、夢や理想だけではダメだ』ということは、20歳の頃から気づいていました。

それを手に入れるためには、現実的に何をしなけれればいけないのか? ということを僕はずっと考えてきたのです。そして、僕は『不動産投資』というものを発見したのです。 

どこまで行っても、僕たちは現実社会から逃げることはできない

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若い頃は、ニューエイジ的なものにハマる時期があってもいいと思います。瞑想をしたり、ヨガをするのもいいでしょう。宇宙と交信したって構いません。それは、いわば『通過儀礼』のようなものです。

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若いうちは、どんどんそういう経験・体験をしてみるべきだと僕は思っています。でも、それと同時に、「そんなことしても毎月の家賃が払えるわけではない」という現実も忘れてはいけません!

座禅を組めば、住宅ローンの残債がゼロになる、というのならば、何時間でも座禅を組みます。だけど、実際はそんなふうにはなっていません。

夢や理想は、とても大事なことだと思います。もしも夢や理想といったものがなかったら、生きることはあまりにも過酷すぎます。だけど、夢と理想だけあってもダメです。

もしも瞑想して、「この世のものとは思えない体験」をしたとしても、月末になれば、請求書の支払いをしなければいけないのです。それが、『生きる』ということなのです。

この世は美しく、カッコいいものだけで構成されてるわけではありません。美しくないものや、カッコ悪いもの、ダサいものなんかも、この世の中を構成する要素のひとつなのです。

どんなに神秘体験をして「幸福感」のようなものを得たつもりでいても、それは幻想(イリュージョン)かもしれないのです。本当の幸せとは、簡単に手に入れられるものではなく、やっぱりどこまで行っても、この現実社会のなかで発見してゆくしかないものなのです。

幸せとは目に見えるものなのか?

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僕が最近、とても気になっていることがあります。それは、世の中がどんどん『不寛容』になってきていることです。互いが互いを監視し合い、批判し合い、攻撃し合う…。そして、やがて自分自身も狂気の世界に落ちてゆく。社会は今、どんどん息苦しい方向へ向かっています。

どうしてこんな世の中になってしまったのでしょうか? どうして人々は、互いを思いやり、愛し合い、助け合うのではなく、こんなにも憎しみ合うようになってしまったのでしょうか? 

僕は、その根底には、『コンプレックス』があると思っています。そして、人々にコンプレックスを植えつける根っこには、冒頭で申し上げた「幸せの線引き」があると思っています。

だけど、その線はますます強力に、ますますクリアになっていっています。その結果、勝者と敗者、持てる者と持たざる者の差が、よりはっきりしたものになっていっています。

そうなると、人は嫉妬心を抱きます。コンプレックスを抱きます。そして、それがさらに人の攻撃性に拍車をかけます。「オレが(わたしが)こんな不幸なのに、なぜアイツがあんなに幸せそうなんだ…?」といった具合に、『幸福』というものを真ん中に置き、こちら側とあちら側に分断されているのが、今の現状です。

幸せとは、目に見えるものなのでしょうか…?