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シンプルに。自由に。

北海道でアパートの大家業をしてます。4人家族。映画が好き。猫が好き。本当の豊かさは高い収入でもモノでもなく「自由な時間だべや」という信念のもと、なまらのんびり生きてます。“every cloud has a silver lining.” したっけ!

【村上春樹に学ぶ】腹が立ったときの最も賢い対処法


走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

こちらは僕が敬愛してやまない小説家・村上春樹さんが2009年に発表したエッセイ本です。

「走る作家」として有名な村上春樹さんが本格的に「走ること」について正面切って語っています。この本を読むと、なぜか無償に走りたくなります! そして、なぜか心が前向きになります!

この本のなかで、村上春樹さんは珍しく人生について語っています。しかも、どれも非常に重要なことばかりです。まさかあの村上春樹さんがそういうことを書くなんて…。最初はとてもびっくりしました。

村上さんはこれまであまり人生論的なことは書いてきませんでした。どちらかといえば、そういうことをあえて避けてきたような気がします。でもなぜかこの本あたりから自分の人生についていろいろと語りはじめることが多くなってきました。

しかもその内容が非常に興味深いものばかりで、おもわず唸ってしまうものばかりなのです。

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 

目次

腹が立ったら自分にあたれ。悔しかったら自分を磨け

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村上春樹さんはこの本のなかで次のような大変興味深い内容のことを書いています。僕はこの文章こそがこの本のクライマックスであり、村上さんがいちばん言いたかったことなんじゃないかと勝手に解釈しています。

 

誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。

いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。

そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。

腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分が磨けばいい。そう考えて生きてきた。

黙って呑み込めるものは、そっくりそのまま自分のなかに呑み込み、それを(できるだけ姿かたちを大きく変えて)小説という容物の中に、物語の一部として放出するようにつとめてきた。

 

「腹が立ったら自分にあたれ。悔しかったら自分を磨け」…って、すごくいい言葉だと思いません? 

とくに対人関係なんかで嫌な目に遭うことってありますよね? 人からバカにされたり、誹謗中傷を受けたり…。自分についての悪口を思いがけず耳にしてしまうこともあります。そんなとき、あなたはいつもどうしてますか? その相手と対峙しますか? 「いや、それは違う」「誤解だ!」と言って反論しますか?

まあ、そういうやり方も功を奏すときもありますよね。でも僕の経験上、そういうふうに反発したり、反論したりしてもあまり効果はありません。だいたいが、もの分かれに終わって消耗するだけです。まともにぶつかってもロクなことにはならんのです。

じゃあ、どうすればいいの?…という話になります。そんなとき、ぜひこの村上春樹さんの言葉を思い出してください。「腹が立ったら自分にあたれ。悔しかったら自分を磨け」。

結局のところ、人生を生きるうえでこれがいちばん有効な手段です。これは僕も実感としてわかります。いつまでも腹が立つ相手と関わっていても、ほとんどの場合、何にもなりません。ストレスがたまるだけです。

いちばん効果的なのは、あなたが幸せになることです。それがいちばんの復讐です。そしてそれがいちばん相手がこたえることであり、嫌がることです。だからいつまでもくだらない相手にかまっていないで、自分を磨くことに全精力を注ぐようにしましょう!

僕が僕であって、誰か別の人間でないことは、僕にとってのひとつの重要な資産

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この本のなかでもう一つ大好きな文章が次にご紹介する文章です。これなんかも実に村上春樹らしい人生哲学ですね。僕もどちらかといえば協調性がなく、自分勝手に生きてきましたが、そういう生き方ってやっぱりどこかで摩擦を生みます。

でも、その摩擦は「しょうがない」と僕も割り切っています。そういうものはこういう生き方にはつきものなのだ、と思うようにしています。

日常生活においても仕事のフィールドにおいても、他人と優劣を競い勝敗を争うことは、僕の求める生き方ではない。

つまらない正論を述べるようだけれど、いろんな人がいてそれで世界が成り立っている。

他の人には他の人の価値観があり、それに添った生き方がある。僕には僕の価値観があり、それに添った生き方がある。そのような相違は日常的に細かなすれ違いを生み出すし、いくつかのすれ違いの組み合わせが、大きな誤解へと発展していくこともある。

その結果故のない非難を受けたりもする。当たり前の話だが、誤解されたり非難されたりするのは、決して愉快な出来事ではない。そのせいで心が深く傷つくこともある。これはつらい体験だ。

しかし年齢をかさねるにつれて、そのようなつらさや傷は人生にとってある程度必要なことなのだと、少しずつ認識できるようになった。 考えてみれば、他人といくらかなりとも異なっているからこそ、人は自分というものを立ち上げ、自立したものとして保っていくことができるのだ。

僕の場合で言うなら、小説を書き続けることができる。ひとつの風景の中に他人と違った様相を見てとり、他人と違うことを感じ、他人と違う言葉を選ぶことができるからこそ、固有の物語を書き続けることができるわけだ。

僕が僕であって、誰か別の人間でないことは、僕にとってのひとつの重要な資産なのだ。心の受ける生傷は、そのような人間の自立性が世界に向かって支払わなくてはならない当然の対価である。

 

僕もよく人から「変わってる」と言われます。子どもの頃から言われ続けてきましたし、今も言われています。とくに脱サラして、起業する道を選択したときには、散々まわりから言われたりしました。

たしかに40歳前に会社を辞める人間なんてあまりいませんから、たぶん変わっているのでしょう。でも、よく考えてみると、その「変わっている」というのは、彼らサイドからみてのことです。何をもって「変わっている」「変わっていない」のかの判断をするのかは、非常にむずかしいことなのではないでしょうか?

こうしてセミリタイア生活を満喫してみてつくづく思うのは、「ああ、僕は他の人と違っていて、良かったなぁ…。」ということです。

僕の場合、その「変わっている」ということが人生において大いに助けとなりました。もしも僕がほかの人と同じ考えを持っていたら(つまり、彼らが言う「変わっている人間」ではなかった場合)、今の僕はありません。

僕は脱サラもしていなかったし、起業もしていなかった。自分で会社をつくろうとも思わなかったはずです。…それは僕にとってあまり良くないことです。なぜなら僕は今の僕に満足しているからです。自分の人生に誇りを持っているからです。

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)