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シンプルに。自由に。

北海道でアパートの大家業をしてます。4人家族。映画が好き。猫が好き。北の国でなまらのんびり生きてます。“every cloud has a silver lining.” したっけ!

汗水たらして真面目に働けば幸福が手に入るのか?問題


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自由な時間。…これは誰しもが「手に入れたい」と望んでいるものです。しかし、これを実際に手に入れるのは、至難のわざでもあります。

「お金さえあれば、自由が手に入る」と思っている人が大勢いますが、それは間違いです。どんなに高収入を得たとしても、そのことによって自由が手に入るわけではありません。なぜなら、高収入を得るためには、死ぬほど働く必要があるからです。

労働時間が長くなれば長くなるほど、自由な時間は削られていきます。逆に、労働時間を短くし、自由な時間を確保しようとすればするほど、得られる収入は減っていきます。

会社を辞めれば、その瞬間に自由な時間は手に入りますが、もしも貯金が底を尽きたら、生活費を稼ぐためにまた働きに出なければなりません。これでは「自由な時間を手に入れた」とはとても言えません。

本当に自由な時間がほしいならば、『働かなくても生活していけるだけの経済力』を身につける必要があります。でも、それはそう簡単なことではありません。「働くこと」と、「収入」は比例しているものだからです。

それなのに、「働かないこと」と、「収入」を比例させるなんて…。そんなことって、現実的にできるのでしょうか?

目次

不動産投資のおかげで、『自由』と『幸せ』の両方を手に入れることができた

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僕は基本的にはのんびり屋です。人と何かを競い合うことは、学生の頃から大の苦手でした。いまどきの言葉でいえば、僕は間違いなく「草食系」だと思います。

そんな僕でも、「やっぱり何かを得るためには、それなりの努力というものが必要だ」と思っています。さすがの僕でも、何の努力もなしに何かを達成できるとは思っていません。

僕もそれなりに世間の荒波にもまれてきましたから、「世の中はそんなに甘くない」ということは百も承知です。ましてや、『自由な時間』などという贅沢品を手に入れようとするからにはそれ相当の努力をしなければ手に入れることはできない。…ということもよくわかっています。

自由な時間は、多くの人が欲してはいるものの実際に手に入れる人は極端に少ないものなのです。どんなに高い年収を得たとしても、自由な時間は手に入りません。いや、それどころか年収が高くなればなるほど仕事が忙しくなり、自由な時間はどんどん少なくなっていきます。

反対に、自由な時間だけを追い求める生き方もなかなかしんどいものです。この世は資本主義ですから生活していけるだけのお金を稼がなければ生きてゆくことはできません。

だから、自由な時間というのは、とんでもない贅沢品なのです。それは、ポルシェや高級マンションを手に入れることよりもむずかしいことなのかもしれません。

誰だって自由な時間を手に入れたいと思っています。確かに、定年退職して、年金暮らしになれば自由な時間は手に入るかもしれません。しかし、人生の秋口になってから自由な時間を手に入れたとしても、それはそれで空しいでしょう。できることならば、まだ若くエネルギーに満ちあふれている年齢のうちから自由な時間を確保したいものです。

また、最近は受けとる年金額の減少により、年金だけでは生活できなくなってきました。こうして考えてみると「自由な時間を手に入れ、なおかつ幸せに暮らす」という望みを叶えるのは、非常にむずかしいことがわかります。

だけど、僕はそれを手に入れたかったのです! どんなにむずかしくても、できることならばその夢を達成したいと思ったのです。そして、悪戦苦闘のすえに僕は「不動産投資」というものを発見し、それを実践したおかげで、『自由』と『幸せ』の両方を手に入れることに成功したのです。

汗水たらして真面目に働けば幸福が手に入るのか?

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僕の父は古いタイプの人間でした。良く言えば真面目、悪く言えばお堅い考え方をする人間でした。僕は典型的な自由主義的な考え方をするタイプなので、父とは昔からうまが合いませんでした。

僕と父は『労働観』についても、まったく意見がかみ合いませんでした。父は、汗水たらして真面目に働くことが良い生き方だ。…という信念を持っていました。でも、僕はその考えには賛同できませんでした。

それは父が生きた時代には通用した生き方でした。父は団塊の世代です。団塊の世代は「もっとも幸福な時代を生きた、もっとも幸福な世代」と言われています。そういう幸福な時代を生きた父の世代は、汗水垂らして真面目に働くことで幸福は手に入ったかもしれません。しかし、今は違うのです。

どんなに汗水垂らして真面目に働いたとしても、それで幸福が手に入るわけではないのです。それどころか、何も考えずにただ真面目に働いているだけではどんどん不幸になってゆく恐れすらあります。

現在の会社は父が現役だった頃の会社とは違うのです。現在の会社は従業員のことを「使い捨てライター」のように扱うようになっています。これは父が生きた時代とは大きく異なるところです。

僕たちは知恵を振り絞って生きていかなければなりません。それはとてもめんどくさいことです。人間だれしも、できることならば何も考えずに生きていたい。…と思うものです。わざわざ何かを考えなきゃいけないなんて、疲れる生き方です。

だけど、きちんと物事を考えなければ、時代に翻弄され、企業に利用されるだけです。そして、用済みになれば、簡単に使い捨てられるだけです。僕は20代の終わりごろに、そのことに気づきました。だから、必死になって自分を守る術を身につけようとしたのです。

このまま会社にしがみついて、サラリーマンを続けてゆく生き方がとても危うい生き方のように思えたのです。 

自由を手にした人間が受け取らなきゃいけないもの

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父はそんな僕の考え方が理解できませんでした。父は会社にしがみつく生き方の方が安全な生き方のように思えたのでしょう。それは父が生きた時代にとっての安全な生き方であって、僕が生きる時代にとっては全然安全な生き方ではありませんでした。

その後、僕は紆余曲折の末に『不動産投資』というものと出会い、自由と幸せを手に入れることができました。そのおかげで僕は会社を辞めることができました。

今ではほそぼそながらも、会社を経営するまでになりました。それでも父は今でも僕の生き方に疑問を持っています。僕が選んだ選択に納得していません。

この溝は、おそらく一生埋まることはないのかもしれません。父が僕のことを認めてくれる日は永遠に来ないかもしれません。でも、僕はそれでもいいと思っています。大切なことは父に認められるかどうかではありません。僕が今、自由で幸せな毎日をおくれているかどうか? なのです。

「汗水垂らして真面目に働くことこそが、正しい生き方だ」という考え方はいまだに根強く残っています。自由に生きている人間は、常にその同調圧力と闘っています。

この闘いは、おそらく死ぬまで続くことだと思います。僕は決して「不真面目に生きろ」ということを言いたいわけではありません。だだ、「時代はもう変わったんだ!」ということを申し上げたいだけなのです。